副王家の一族
19世紀のシチリアを舞台に、副王家の末裔である名門貴族の愛憎劇を描いた作品で、フェデリコ・デ・ロベルトの『I vicere(副王たち)』が原作。監督は「鯨の中のジョナ」のロベルト・ファエンツァ。イタリアのアカデミー賞にあたるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の4部門受賞作品だ。当時の貴族たちの生活や思想がリアルに垣間見られる。ただし、鑑賞前にイタリア史の予習をしたほうが理解度が深まるかも。
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放蕩息子でもカエルの子はカエル
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西洋史モノは大好きな私ですが、流石にイタリア史は殆ど解らず。そもそもこの一族・ウゼダ家が副王家の一族と言われてもサッパリです。で、一応最初に簡単に説明すると、ウゼダ家はシチリア島の名門貴族。その昔スペインのブルボン王家はナポリとシチリア島を支配していましたが、そこに王の代理として副王を置いて統治していたのでした。その副王家の末裔がウゼダ家という訳です。物語の概略としては、この名門貴族のドロドロの愛憎劇で、スケールの大きな「華麗なる一族」といったところ。長男コンサルヴォ(アレッサンドロ・プレツィオージ)が子供時代から青年時代を中心として、一族や周囲の人間を描いた一大叙事詩です。


一族と言うだけあって、大叔父、大叔母、叔父、叔母、父母、従兄弟、更に幼馴染まで含みますから、人間関係を把握するのにはかなり労力がいるかもしれません。暴虐で昔ながらの家長・ジャコモ(ランド・ブッツァンカ)と、それに反抗する長男コンサルヴォの対立がベースに話は進みますが、単純に暴虐な父に対する反抗心というだけでなく、時代背景的が彼を後押ししていました。即ち当時のイタリアは統一運動の真っ最中で、若きコンサルヴォは、若者らしく王の支配から解放された自由な新しい時代への変革を喜んでいます。つまりこれは新世代と旧世代の世代間争いとも言えるのでした。


とはいえ、正直あまりコンサルヴォに共感は抱けません。それは彼が何も成し遂げていないのにも関わらず、言うことだけは一人前だから。もっともこれは現代の若者にも通じるところがありますけども…。反抗はするものの、自ら家を飛び出るほどの気概も決意もないコンサルヴォは、家の金で日夜遊び歩きます。挙句に街娘を無理矢理犯してその兄弟に刺される始末。怒った父は彼を旅に出してしまうものの、それとて父の金です。要はスネかじりの我儘お坊ちゃまの贅沢なお悩みという訳。そもそもそんな輩に父に意見する資格はないですし、その程度の覚悟では狂気にも似た父の迫力には到底太刀打ちできなくて当たり前です。


私はむしろ父ジャコモの方に共感を覚えました。革命によって自分の代で副王家末裔のウゼダ家を無くすわけにいかない彼は、いかなる手段を持ってしても家を守ろうとしただけ。現代の倫理観からすれば理不尽極まりないことでも、別に政略結婚や跡目争いなど世界中どこでもあることであり、それでことさら非道な人間だとは言えないでしょう。そもそも家長とはそういうものですし。ジャコモ役のランド・ブッツァンカ、初めて見る俳優ですが、彼の狂気を帯びた表情や有無を言わせぬ厳格さを醸し出す演技には感服するのみ。威厳のある貴族が、次第に尼僧を教祖のように崇め、心が徐々に壊れていく様子は一見の価値ありです。


コンサルヴォの幼馴染であり彼の妹テレーザ(クリスティーナ・カポトンディ)と両想いのジョヴァンニーノ(グイド・カプリーノ)は、ダリア公爵家の次男で、それ故にジャコモは2人の結婚を許しません。結局政略結婚でテレーザを失ったジョヴァンニーノは、コンサルヴォに「むしろお父上を見習うべきだ。」と言い残し自殺します。ここは本作で最も重要とも言えるシーンかもしれません。この言葉でコンサルヴォは力無き言葉は無力であることに気付くのでした。しかし個人的に言わせて貰えば、もっと早く気づけよと…。正直妹の政略結婚を知っても、父の意見にアッサリ屈してしまう情けないアニキにはうんざり。


しかしここからのコンサルヴォは文字通り人が変わったようでした。ジャコモ無き後ウゼダ家を継ぎ、議員に立候補し当選するも市民の側の党から、即ち左系からの立候補だったため大叔母は彼を裏切り者呼ばわり。しかしそれに対してコンサルヴォが言う「これからの時代で一番必要なのは権力です。」のセリフとその表情、其れは正に父ジャコモを思わせる副王家の一族当主の顔でした。由緒ある家柄に生まれついた人間、それも長男の必然とも言える運命を綴った見応えある作品です。
個人的おススメ度3.5
今日の一言:別に副王家でなくてもありそうな出来事かと。
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