真幸くあらば
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詩人監督の送る映像詩を読む |
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「磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらば またかえり見む」万葉集に収められている有間皇子が詠んだ歌で、ここから本作のタイトルは来ています。意味は「磐代の浜松の枝を引き結んで さいわいにしてぶじでいられたらまたここへもどってながめよう」。しかし本作の主人公・南木野淳(久保田将至)は絶対に「真幸くあらば」なことはありません。何故なら彼は死刑囚だから。しかし、本作では「真幸くあらば」必ず結ばれたであろう川原薫(尾野真千子)との決して叶わぬ、切ない純愛を静かに淡々と描いています。


淳が空き巣に入った先で殺してしまったカップル、その男の方の婚約者が薫でした。薫は自分の婚約者を殺した男を観る為にボランティアとして淳の世話をすることにします。しかし、ある意味では婚約者の浮気という事実を明らかにしてくれた彼に感謝もしていたのでした。裁判所での傍聴、そして刑務所での面会所での出会い、淳も薫もお互いにゆっくりと本人もそうとは気づかないほど心の奥底でお互いに惹かれあって行きます。人が人を好きになることに理由はないとはいえ、運命的過ぎる出会い。


詩人の監督だけに、静謐にそして、必要最低限のセリフで描く2人の間には、最初のうちは第3者から見たら恋愛感情が芽生えているとは見えません。そもそも淳は自ら控訴を取り下げて一審での死刑判決が確定します。それは彼が自分自身をどうしても許せない理由があったからなのですが、もし先に薫と出会っていたならどうだったのか…。もちろん結果として死刑になったかもしれないけれど。カップルを殺してしまったシーンも、計画的ではなく出会い頭なもので、それを考えると淳は運命のサイコロで悪い数字ばかり出していたようにも見えました。


お互いにお互いの気持ちに気づいた2人は、聖書に手紙を書き込んで秘密の通信を始めます。共通の秘密を持つこと、そして障害が大きければ大きいほどお互いの気持ちが燃え上がるのは当然のこと。更に、絵が得意だった淳は薫に生まれたままの姿を描かせてくれるよう頼みます。しかしそれは到底無理な相談。そこで薫は聖書の表紙の裏紙の中に自分の写真入れてを送り、淳もまた描いた絵を薫に送るのでした。言ってみればこれはこの後に描かれる究極の純愛セックスに対する究極の純愛前戯だと言えるのかもしれません。


満月の夜、お互いにその月を見ながら離れた場所で自慰行為に耽る2人。しかし満月を介して確実に2人は繋がっていました。まさしく狂おしいばかりの純愛。狂おしいばかりの肉欲。相反する2つの精神性は人間そのものであり、通常は分離などしようもないけれど、この特異な環境下においてのみそれは成立していました。遠距離恋愛を経験したことのある方ならば、同じとは言わないまでも似た感覚を覚えたことがあるのではないでしょうか。尾野真千子が自らの胸を揉みしだき自慰に耽る様は非常にエロティックで、文字通りの体当たり演技です。


クライマックスのこのシーンこそ、感情的な高ぶりが表現されているものの、後はいたって平板。まるで2人だけは別の世界に存在しているかのよう。そこに登場する佐野史郎の弁護士、テリー伊藤やミッキー・カーチスら他の死刑囚たち、山中聡の看守がかろうじてこちら側の世界との架け橋となっており、物語に常識性というか現実感を持たせていました。詩人監督の映像詩を心で読み解くのも良いかもしれません。
個人的おススメ度3.5
今日の一言:尾野さんの童顔と行為のアンバランスが不思議でした
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