ジョニー・マッド・ドッグ
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リアリティはどこから来るのか |
あらすじへ
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アフリカのとある国で起こった内戦での少年兵たちを描いた作品。実は少年兵の存在自体は今時そう目新しい事実ではありません。まだ年端もいかないころから麻薬を使い戦闘訓練漬け、そうやって洗脳すると人を殺すことに対する罪悪感や、自分のやっていることに対する疑問を抱かないようにさせる訳です。簡単に言うと、それは純粋培養100%兵士を育てるということと同義。この物語の主人公ジョニー・マッド・ドッグ(クリストフ・ミニー)はそんな少年兵部隊のリーダーです。ここで言う“ジョニー・マッド・ドッグ”は当然本名ではありません。他の少年兵たちも“ノー・グッド・アドヴァイス”だとか“バタフライ”だとか呼ばれていますが、つまりそれは彼らがいわゆる人の子ではなく、あまたいる反政府軍兵士の一人であることの証左であり、駒に過ぎないことを意味していました。


さて、オープニングシーンはそんな彼らが何処かの村の村人たちに対して強盗・虐殺を行うというショッキングな場面から。ただし、反政府軍の名の下に、罪もない一般人(それは女子供も含めて)を政府側の人間と決め付けやりたい放題というのは、古今東西内戦では普通に見られる風景であり、確かに惨いと思うけれどそれほど驚きは感じませんでした。監督は実際に元少年兵15人をオーディションで採用し、内戦直後のリベリアで1年間彼らと生活を共にしたあと撮影に望んだそうです。そこまでして追求したリアリティなのですが、残念ながら何故か私には遠い別世界で起こっている出来事に思えてしまい、おおよそリアリティを感じられなかったのが残念でした。


それには肯定的な意味合いと否定的名意味合いの2つがあるように思います。肯定的な意味としては、余りにリアル過ぎるからではないかということ。今まで何度も報道や番組で紹介されてきた内戦の様子、少年兵であることを差し引いても、そこで観て来た映像に余りに一致し過ぎているせいではないかと思うのです。これには監督もさることながら、本作の撮影担当が実際に内戦を撮影してきた戦場カメラマンであるということも影響しているのかもしれません。否定的な意味合いとしては、元少年兵たちは役者ではないということ。役者がその演技によって現実を越える驚きやリアリティを観るものに与えることが可能なのは今年のオスカー作品『ハート・ロッカー』でも明白です。


この作品、私にはリアリティよりも、時折ジョニーが見せる優しい眼差しの方が印象に残りました。怒声や銃声が行き交うのが珍しくもない世界の中で、ふとした拍子に見せる彼の少年らしい表情、それは他の少年兵が100%洗脳されている中でジョニーだけは95%、つまり彼の心の中にはとても小さいけれど誰にも犯すことの出来ない聖域があるように思えたのです。劇中ジョニーがそんな表情をするのは13歳の少女ラオコレ(デジー・ヴィクトリア・ヴァンディ)や反乱軍のキャンプで出会った女の子だけ。つまり洗脳されていても15歳のジョニーは思春期真っ只中であり、その時期の少年の気持ちは彼の表情に素直に表れていたのです。年上のアナウンサーを殺さずにレイプしたのも、結局はその延長ではないかと。


やっていることは酷いことであっても、私はそこに未来への希望が見出せるような気がしました。まだ彼は100%の殺戮マシーンではない、引き返せるはずだと…。もっとも、そうは言ってもそんなことは全てジョニーの内面の話であり、周囲から見たら他のメンバーと何も変わらない反政府軍の少年兵。ラストシーン、本当は政府軍の狙撃で死んだラオコレの弟の恨みをその身に受けるジョニーではあるけれど、“身から出た錆”とは正にこのことです。私たちはジョニーのその心のあり方から彼女を殺さなかったことを知っていますが、彼女にしてみればそれでジョニーに感謝などする訳もありませんから。なんとも皮肉なこのエンディングがある意味一番リアリティがある気がしたのでした。
個人的おススメ度3.5
今日の一言:ラオコレって美人だと思う
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『ジョニー・マッド・ドッグ』予告編
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