ピアニスト
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| エリカはマゾヒストじゃない |
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2001年のカンヌ国際映画祭でグランプリと女優賞、男優賞の3冠を獲得したミヒャエル・ハネケ監督の7本目の作品です。余談ですがグランプリといっても最高賞の意味ではなく、あくまでカンヌの最高賞はパルム・ドール。これから8年後の『白いリボン』までそれはお預けということになる訳です。それにしても本作もまた強烈なまでに隠された人間の本性を暴きだすかのような作品でした。本作の主人公・エリカ(イザベル・ユペール)は幼い頃から母親にピアニストになるべく英才教育を受けた女性。残念ながらコンサートピアニストにはなれなかったものの40歳過ぎにしてウィーン国立音楽院のピアノ教授という地位にまで上り詰めています。そんな彼女が私的な演奏会で出会ったのが若くてハンサムな好青年ワルター。

要はこの2人の恋物語なのだけれどそこはハネケ。ハリウッドのような甘く切ないなんて柔な話にはなりません。それは彼女に特別な性癖があったから。自らの性器をかみそりで傷つけ、ドライブインシアターでカーセックスをするカップルを覗き見しては興奮し失禁する彼女は一見するといわゆるマゾヒストのようです。そうとは知らず、一途に恋する余り、工学部の学生でありながら音楽院の試験を受けて合格までしてしまうワルター。彼の求愛に素直にうなずいてくれないエリカ、物語はある種の純粋で美しい人間性と醜悪で倒錯的な人間性のせめぎ合いが描かれてゆきます。エリカを観ていて疑問に感じたのは、彼女の精神性は単純にマゾヒストなのかということ。一般的にマゾヒストと言えば被虐性が前面にでた精神性を指しますが、彼女の場合は逆に加虐性が本質ではないかと思うのです。
彼女は幼い頃から母親によりコンサートピアニストになることを義務付けられていました。即ち強烈かつ理不尽なまでの抑圧にさらされていたわけです。『白いリボン』では子供の抑圧された精神は自己防衛からやがて絶対的存在への積極的な服従へと形を変え、それがひいては他者に対する攻撃に繋がっていく様子が表現されていましたが、結局は本作のエリカも同じことだと思うのです。ただ違うのは今回はそれが彼女個人の話だったということ。他者がいない彼女の場合は、己の心のうちにもう一人の人格を作り上げているのではないでしょうか。それは幼き頃から封印されてきた純粋な女性としての彼女であり、解りやすく言えば、ワルターとの出会いで彼女の中の封印されていた女性の部分が目覚めたのではないかと。エリカは彼の求愛をそっけなくかわしつつも、どこかで彼を愛しています。

イザベル・ユペールの演技はそのもどかしくもあり、しかし冷徹な現実でもあるエリカの内なるせめぎ合いを見事に表現していました。トイレの中でワルターの性器を弄びながらも射精させないといった行為は、彼女の本質的な加虐性が表に出てきた一面であり、彼に手紙で自分の性癖を告白したのは、正にこの好青年を愛している自分の中の女性に対する攻撃に他なりません。つまり彼女はマゾヒストではないのです。かと言って、サディストでないのは、その攻撃によって自らの心の安定を得たり、性的快楽を得ていないことからも明白。彼女の中の女性である部分を屈服させた彼女自身の加虐性のおかげで、ワルターの所に押しかけてまで彼の体を求めるのに、口にした瞬間吐いてしまうエリカ。もはや彼女が理性で彼女の中の女性を持ち直そうとしてもそれは不可能なまでになっていきます。

この後でワルターが手紙に書かれたとおりに彼女に暴力を加えても、当然ながら彼女は性的快楽を得ることなど出来ません。もっと言えば望んでいたはずのワルターとのセックスそのものにも快楽を感じられなくなってしまった…。エリカは母親に対して抱きつき事に及ぼうとしますが、それは彼女自身の加虐性の原点である母親の抑圧に対して、彼女の中の女性が試みた哀しい反抗です。そしてその翌日―。演奏会の会場にナイフを持って出かけるエリカ。ワルターが笑顔で挨拶をして通り過ぎたのを黙って見過ごしたあと、突然彼女は自分の胸にナイフを突き立てます。そして足早に会場を後にするのでした。これは幼い頃から母親の抑圧によって生まれたピアニストである自分と、絶対的存在に服従することから来る自分の加虐性の両方を殺した瞬間ではないかと私は受け止めています。
個人的おススメ度
4.0
今日の一言:エロさは全く感じないんだよね
総合評価:77点
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『ピアニスト』予告編
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