サラエボ,希望の街角/Na putu
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何故こうなってしまったのか… |
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いきなりスクリーンに映し出される美しい女性。ちょっと滝川クリステルにも似たこの女性はズリンカ・ツビテシッチ。笑顔にどことなくあどけなさが残る彼女ですが、その表情とは裏腹に10年前の内戦のおり、目の前で両親を殺されるという深い心の傷を負ったヒロイン・ルナを演じています。彼女の同棲相手が、同じように内戦で家族を失い、その痛手から飲酒癖に溺れるアマル(レオン・ルチェフ)。ルナは航空会社のCA、彼は管制官として働いていましたが、ある日の仕事中にアマルが飲酒していたことがばれて6週間の停職になったことが全ての始まりでした。ところでボスニアという国に関して我々日本人はどの程度の知識があるでしょうか。


本作を観る際には、元はユーゴスラビア連邦の一国で、その独立の際に約3年に渡る民族紛争(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)が起こり、多くの死者がでたと言う事位は最低限知っているべきでしょう。ルナは彼の子供を欲しかったのですが中々妊娠できない。そこで不妊治療の末人工授精を決意します。そんなタイミングでの彼の停職でした。偶然であったアマルの戦友に彼らの生活するキャンプでの仕事を紹介してもらったのは良いのですが、彼らはイスラム原理主義者だったのが問題。アマルは次第に彼らに傾倒して行きます。ボスニア・ヘルツェゴビナは3つの民族と2つの宗教が共存する国。実際問題ルナの祖母もイスラム教徒であり、ルナ自身もそれほど熱心ではないけれどイスラム教徒です。


私から観るとイスラム原理主義に傾倒していくアマルは、まるで新興宗教にはまってゆく人間そのもののようですが、信仰そのものに対して日本人よりは理解があるであろうルナですらその異様さを感じていたのですから、彼の様子は余程だったのだなと。正直言うと原理主義の持つ不寛容性は観ていて苛立ちを覚えます。私ならば恋人がそうなったら即座に縁を切るでしょう。信仰に関しては理屈ではないですから、始めから説得など不可能だと考えているので。従って健気にもアマルを以前の彼に戻そうとするルナの姿に、半分は感心し半分は呆れていました。それはともかく、要するに本作では内戦で負った深い心の傷を癒すためにこの2人が何に救いを求めたのかを描かれているのです。


ルナはどうやら仕事と、愛する人の子供を得ること、即ち自らが失ってしまった家族を再生することを望んでいました。ところがアマルはそうではなかった…。彼がキャンプにいる間に彼女は一度迎えに出かけますが、そこでの会話に「内戦で多くの人間が死んだから、女は余計に子供を産まなくてはならない。」というものがあります。以前某国の某政治家は「女性は子供を産む機械」発言をして問題になりましたが、それでなくても子供が出来ない彼女にとって、この言葉はどれだけ傷ついたことか。アマルがすっかり変わって戻ってきても、彼女は何とか彼を受け入れようと努力します。それはルナにはアマルが必要だったから。キャンプから戻って以降の2人を観ているのは非常に辛いものがありました。


お互い自分が求める道を進んだ結果、気がついたら2人の人生は離れてしまっていた。特にルナは彼が救いを求めていたことは十分に解っていたでしょうし、よもや彼の心の平穏が自分にとっての不幸を招くとは思いもよらなかったはず。それはあたかも、かつての祖国が気がつくと分離してしまっていたかの如くです。そして、心の中で泣きながら彼との人工授精を諦めたルナに対してアマルが「君は正しい。アッラーはそれを望んでいない。」とった瞬間に全ては終わったのでした。愛しているという彼に対して、笑顔に涙を浮かべながらキスをするルナ。それは彼女の決別宣言であると同時に、愛する彼が求めたものが信仰ならばもうそれでよいと受け入れた証なのかもしれません。


もちろん、これで彼女の歩む道は彼と同じになることは無くなった訳ですが…。女性監督が女性の視点から描いた作品だけに、ルナの自然な感情の奔流が実に解り易い作品でした。原題「NA PUTU」はサラエボ語で「道の途中」という意味だそうです。正にサラエボの街も人々も再生の途中であり、本作はそんなサラエボの一コマを切り取ったものだと言えるかもしれません。ところで監督は前作で来日した折に日本から持ち帰ったもの2点を映画に取り入れているんだとか。一つは「命」と書かれた書?のようなものが飾られていたと思うのですが、もう一つはなんだったのでしょう?
個人的おススメ度4.0
今日の一言:ルナの本当の笑顔が見たい…
総合評価:78点
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