終わらない青
20代前半女性の7人に1人が経験するという自傷行為。少女たちをそんな行為へと駆り立てる想いとは一体何なのか。実際にリストカットの経験をもつ着エロアイドル水井真希を、父親から性的虐待うける主人公にすえ、リアルな心情を描くべく挑戦した作品だ。デビュー作がゆうばり国際ファンタスティック映画祭でコンペ部門にノミネートされた緒方貴臣。 |
監督の理想は解るが演出は違うと思う |
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監督自ら試写会にお呼び頂き、上映前に少しご挨拶させてもらったことを考えると少しでも好意的に書きたいところではある。しかしながら私とて制作者の端くれだったことを考えたら、自分で良いと思ってもいない作品にお世辞を言うことはできない。この作品は元々自傷行為に偏見のある大衆に対して作られたものだという。私自身は自傷行為そのものに対して特段の偏見はないが、そうしてしまう気持ちを理解は出来ない。この作品を観てみようと思ったのは、観ればどうしてそんな行為に及んでしまうのかと言うことが私なりに理解できるかと思ったからだ。結論から言うと、何も伝わってこなかった。いや、正確にいうと、何かを伝えたいことは解るけれど、結局何が言いたいのかが解らなかった。何故リストカットするのか。死にたいから?生きたいから?哀しいから?誰も解ってくれないから?
主人公・楓を演じる水井真希は私は着エロアイドルとして良く知っている。作品も観たし持ってもいる。彼女は実際にリストカット経験者であり、だからこそ彼女の演技には自然な説得力が“元々”備わっていた。では何故解らないのか。それは監督の演出力不足に他ならない。監督はエンタテインメントの要素は極力避けたらしい。例えばお涙頂戴な作品にすると観客は、涙を流した後は現実の世界に戻って作品の世界を忘れてしまうからだそうだ。観客をみくびっちゃいけない。お涙頂戴な作品で忘れられるのはその程度の作品でしかない。だったら忘れられない作品を作れば良いのだ。実際そういう作品はある。監督は自らが映画人でありながら映画の力を否定するのか。まあいい。ともかく監督は感情移入を極力避け、常に客観的な視点、傍観者の立場から楓を見せたかったと言う。傍観させてしてどうするのだろう。
父親に犯される娘の姿を、腰を動かしている父親の姿を傍観しろというのか。確かに酷い暴力だ。なればこそ楓の気持ちと観客の気持ちを同化させる、或いはその気持ちが何もなくとも伝わってくる演出をすべきではないのか。私はあの時彼女の顔が観たかった。ずっと観たかった。空虚なのか、哀しいのか、ムカツクのか、感じていたのか、彼女の気持ちを読み取りたかった。水井真希は着エロアイドル、いや半ば以上はAVアイドルに近い。彼の業界に入る女性は多かれ少なかれ心に何がしかの想いを抱いていると聞く。彼女ならば自分の想いに重ねた演技が出来るはずだし、実際していたのだと思う。しかしカメラはひたすら楓に覆いかぶさって腰を振る父の姿を映し出していた。さて、時計をぐるっと戻す。観初めてすぐに気付いたのが音声の酷さ。
そういえば観る前に監督は技術的に到らないところがあると言っていたがこのことだったのか。登場人物のセリフが殆ど聞き取れない上に、整音が出来ていないからノイズがやたらと煩い。これは何故なのだろう。私は音は映像以上に大事だと思っている。たとえ低予算でもここを外してはだめだ。逆にここがしっかりした作品は、実際の出来以上に仕上がりが良くなる。特に今回はあえてBGMを一切排除するという演出にしているのだから、通常以上に気を使う必要がある。もっともこんなことを監督が知らないはずはないので何か理由があるのかもしれない。本作はワンシークエンスごとに黒味を挟むという構成なのだが、これはこの音の欠点を更に増幅していた。黒味で無音になり絵が出るごとにレベルの違う音を聞かされるのは非常に辛い。
ついでに言うならば、この黒味を挟む構成自体も正直頂けない。シークエンスごとに全部切れてしまうと、観ている側の気持ちの繋がりが持続できないのだ。毎回リスタートして、その前のレベルまで自らの気持ちを持っていかなくてはならない。作品として1本ではないのか。最初に書いたように監督はあえて観客を傍観者のいちに置きたいらしい。つまりこれはそのための手法なのかもしれない。私は人の痛みを自分のものと感じられる心が、その人を深く理解してあげられる心こそが、無関心を無くすのではないかと思う。何故なら今だってこういう事象があることはみな知っているのだから。傍観するだけなら今と同じだ。
5月公開予定 |
個人的おススメ度2.0
今日の一言:直せるなら公開までに音だけでも。
総合評価:45点
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