蜂蜜/Bal
トルコの新鋭セミフ・カプランオール監督の『卵』、『ミルク』に続く三部作最後の作品。6歳の少年ユスフは森に出かけたまま帰らない父親を想い、しかし父の残した「家はだれが守るんだ?」の言葉を忠実に実行しようと健気にふるまう。時に子どもらしい心情を描きながらも、物語はユスフが少しづつ成長してゆく姿を描いている。2010年ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作品。 |
森の静寂さに浸されるような感じ |
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とても美しく、詩情たっぷりの作品だった。舞台となっている人里離れた山岳地帯はそれだけで神秘的な雰囲気を漂わせ、そこで主人公ユスフ(ボラ・アルタシュ)の父親・ヤクプ(エクダル・ベシクチオール)は養蜂家を営んでいる。我々が養蜂と言えば蜜蜂の箱をいくつか並べたものを思い出すが、ここでヤクプは木の上に樽のような箱を設置していた。そこに登ろうとするヤクプがロープをかけた木の枝が折れ落ちかける、そんなプロローグから物語はスタートする。実はこの作品は三部作の三作目で、幼少時のユスフを描いている。ちなみに一作目が『卵』といい壮年期のユスフを、二作目が『ミルク』といって青年期のユスフを描いているそうだが私はまだ未見。
本来は壮年期から若返ってゆくのだけれど、三作目から観てしまった以上、年齢を追った見方をしてみるのも面白いかも。近々一挙公開される予定なので是非観に行こうと思っている。さて、ユスフ。この物語は紛れもなくユスフの成長物語である。序盤では大好きな父の後ろにくっ付いて蜂箱を巡り、何かといえば父の元へと駆けて行く。観ていて少し母親のゼーラ(トゥリン・オゼン)が可哀想に見えるぐらいだ。学校で読み書きをならっているものの、友達の前では吃音が出て上手く読めないユスフ。しかし父親の前で暦を読む時はゆっくりとしかし確実に読むことが出来るのだ。このシーンだけとっても、どれだけユスフが父親の側では精神的にリラックスできていたかが良く解る。
ところがある日森の蜜蜂たちが一斉に姿を消してしまい、ヤクプは仕方なく蜂を探して巣箱を別の場所に置きにいく。自分も連れて行ってくれと言うユスフ。しかし父は優しく微笑みながら「誰が家を守るんだ?」と諭すのだった。後から思えばユスフは父にとっては何ということのない一言を忠実に守ろうとしていたのだと気付くのだが、この時はそこに思いは到らなかった。出て行ったきり戻らない父、そしてユスフは全く言葉を発することが出来なくなる。本作では食卓のシーンが多く登場するのだが、ユスフはそもそも余り食べようとしない。そして決してミルクを飲まない。それどころかこぼしてしまおうとするほどだ。ここで母が作る食事、そしてミルクは母性の象徴と言えるだろう。
別に拒絶している訳ではないのだが、観ていると、ユスフは父が好きなあまり母に対する態度が少し冷たく見えた。もちろんユスフは決して母に反抗したりはしない。そんな風にも見えるという程度なのだが。夫の心配をしつつもゼーラはユスフの前では務めて明るく振舞っているし、ユスフはユスフで彼女の言いつけを守り、お手伝いをし、学校へと通う。ここでふと気付いたのが、これはもしかしたらユスフなりの“家を守る”ことなのかもしれないということだ。言葉を失ったユスフからはどんな感情も音としては表現されてこないが、しかし言葉がないからこそ、そして計算のない子どもの行動だからこそ、それは気持ちを正直に表しているとも言える。
終盤に来るとそんな母とユスフの関係が少し変化したように感じた。それがユスフの成長と言うことなのだろう。徐々にユスフの前でも不安を隠そうとしなくなってきた母の前で、彼はあれほど口にしなかったミルクを飲み干すのだ。まるで「僕ミルクもちゃんと飲むから元気出して」とでも言うように。さらにユスフは学校でつっかえつっかえながらも音読し、クラスメイトたちと同じ“よくできましたバッジ”を貰うことに。皮肉なのはここまで頑張ったユスフに対する答えが父の死だったということ。ラストシーン、太い木の根に囲まれながら眠るユスフの姿は、森に帰っていった父の魂に抱かれているかのように安らかに見えた。といっても音楽も言葉もなく、あるのはただ森の静寂だけなのだが。まるで自然の音が奏でる一編の詩のような心地良さを覚える作品だった。
個人的おススメ度4.0
今日の一言:前二作を観ていればこそ解る部分もあるんだろうな
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