サウダーヂ
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地方は世界と繋がっている |
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まるでドキュメンタリーのような物語。舞台は山梨県甲府市。割と何度か訪れている馴染みのある土地であり、私の実家のある静岡とはお隣の県だ。登場人物たちの喋る“甲州弁”も“静岡弁”に良く似ていて「~~ら?」などと言われると思わず田舎に帰ったかのような安堵感すら覚えてしまう。が、今や政令指定都市となった静岡市とちがって甲府市は廃れる一方。昼間でも商店街の見せにシャッターが降りている、いわゆるシャッター通りを見ていると、『木更津キャッツアイ』の撮影時に連日訪れた木更津の街を思い出してしまった。ただこの寂れ方は特に酷いものではなく、地方都市としては割と普通に観られる光景だ。物語はそこで生きる2人の男と1つの集団を中心にして描かれてゆく。
1人は精司(鷹野毅)という土木作業員。というより土方。親方が「俺はタイ人に給料払ってるようなもんずら」と言うぐらいタイ人ホステスのミャオ(ディーチャイ・パウイーナ)に入れ込んでいる。そしてもう1人が彼らの組に派遣として働きに来たヒップホップグループ“アーミービレッジ”のボーカルを務める猛(田我流)だ。では1つの集団とは何か。それはこの甲府の地に出稼ぎに来ている移民労働者たちのことだ。ブラジル人であり韓国人であり中国人でありタイ人と人種は多岐に渡るだろう。それぞれ表面上の生き方の違いはあるものの、この2人と1集団の人々がその心に抱く想いは同じだった。それは即ち「サウダーヂ」だ。ポルトガル語で“郷愁”とか“憧憬”を意味する。
この単語、の意味が面白いと思う。例えば移民外国人にとっての“郷愁”とは当然それぞれの母国に対して抱くものだろう。しかし“憧憬”を抱くのは日本に対してなのだ。となれば精司と猛にとってはそれは逆になるはず。ところがそうはならない所が興味深い。2人が現状の日本に絶望感を覚えているのは同じだ。しかしその行動において2人が対照的であった。同僚でタイ帰りだという保坂(伊藤仁)の話、見るからに薄汚い利権に染まった政治家を応援してでも上を見たい上昇志向の精司の妻・恵子(工藤千枝)、そして中央に奪われ益々なくなってゆく仕事…。精司は次第に恵子と離婚しミャオとタイに移住したいと希望するようになる。しかし当然ミャオと意見の一致はあり得ない。
お互いの「サウダーヂ」が異なるのだから当然だ。一方の猛。日系ブラジル人デニス(デニス・オリフェイラ・デ・ハマツ)率いるヒップホップグループ“スモールパーク”とのラップ合戦に破れることで、彼は彼らの内にある魂に感化される。しかしかつての恋人まひる(尾崎愛)をデニスに奪われたことで、彼の中では移民外国人を否定し排斥するという誤った国粋主義が頭をもたげるようになるのだった。結局、精司と猛は2人とも日本に“郷愁”は抱きつつも、“憧憬”を抱く対象がタイであり日本であるという部分が違っていた。“憧憬”とは言い換えれば夢を抱くということであり、しかし結果的に誰一人その夢を叶えられなかったというのが日本の地方都市の厳しい現実を表している。
猛は日本人に仕事が無いのは移民外国人がその仕事を奪っているからだと思いこんでいた。実は私も今まで日本人が言う「仕事がない」は日本人が嫌がる、いわゆる3Kの仕事を移民外国人が担っているだけで、日本人は単に選り好みだしているだけだと思っていた。しかし観ていると解るとおり、実はその移民外国人にも仕事はない。だが現実的に社会生活がストップしたわけではないのだから仕事そのものが無いはずはないのだ。では一体その仕事はどこに行ってしまったのだろう。劇中で精司はショッピングモール建設予定地に立ち、そこの仕事は中央が持っていってしまうのだと嘆く。もちろんこれは一例に過ぎないが、いずれにしろ自国に「サウダーヂ」を抱けなくなったらその国は滅びるだろう。
戦後焼け野原になった日本で、我々の親の世代は少しでも豊かになるべく日本を作り上げてきた。その結果として多くの外国人から「サウダーヂ」を抱かれる国になった。移民問題は簡単な問題でないのは解る。しかしそれは現状も同じであり、それでも多くの外国人が日本を目指してくれる。先日来日したブータンのワンチュク国王はその演説でこう言った。「(前略)日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。(後略)」既に日本の地方経済の問題は日本だけの問題ではなく世界の中の日本の問題なのだと認識すべきなのだと思う。
個人的おススメ度4.0
今日の一言:家に帰って思わず訛りがでちゃったw
総合評価:81点
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