CUT
映画に苦しめられ、映画に支えられ |
あらすじ・作品情報へ
←みなさんの応援クリックに感謝デス
キャッチコピーの「映画のために死ね」はある意味正しくて、ある意味間違っていると思う。主人公・秀二(西島秀俊)は死んでもいいぐらい映画を愛しているけれど、それはシネコンにかかるような商業主義の娯楽映画ではなく、芸術としての映画のことを指している。そして黒澤明の墓前で自分もそういった作品を作りたいとつぶやいていた。だから彼は映画のために死ねるけれど、同時に映画のために死ねないと思うのだ。秀二は売れない映画監督だった。これまで3本の映画を兄から借金して撮ったものそれは全く売れていない。鬱積したその気持ちを吐き出すかのように、商業主義の映画に対する批判を街中で人々に訴え警察に追われたりもする。彼は言う「映画は死に掛かっている」と。
そんなある日、兄が借金のトラブルで死んだと連絡が入る。実は兄はヤクザで組織から金を借りていた。兄の残した借金は約1254万円。秀二はそれを2週間以内に返済するように迫られる。返せなければマグロ船の重労働か保険金をかけて殺される。返済する術を持たない秀二は正木の弟分・高垣(でんでん)と出逢ったことで、ヤクザ相手に殴られ屋をすることで金を稼ごうと決意するのだった…。ここから先は秀二が兄の殺されたトイレの中でボコボコに殴られる姿が描かれ続けるのだが、秀二は殴られるたびに尊敬する映画監督の名前を口にして耐える。最初はこの殴られ屋の意味が私にはよく解らなかった。正確には借金返済のための殴られ屋と映画愛の話がどう繋がるのかが掴みかねたのだ。
1発1万円。しかも途中からは兄貴が死んだトイレを使うショバ代とヒロシ(笹野高史)と陽子(常盤貴子)の2人を使う人件費まで取られるのだから、結局1300発ぐらいは殴られないとならない計算だ。しかし秀二は耐え切る。ボコボコに殴られる秀二を演じる西島秀俊からは、鬼気迫るなんて言葉がキレイゴトに思えるほど生々しい息遣いが感じられた。名作のタイトル・監督名・ワンシーンを挟んでは殴られる。そもそも秀二は何故こんなに殴られなければならないのか。借金のためだ。では何で借金が?映画を作るためである。映画が彼を死の淵にまで追い詰め、しかしその映画が彼をギリギリのところで支えているというこの皮肉―。西島秀俊はナデリ監督にこう言われたそうだ。
「おまえの両肩には、“映画の罪”がのしかかっている」と。インデペンデント系の作品が殆ど興行的に成功しない現代の日本で、そういった作品を生み出そうとする秀二の命を絶たんとする映画、それでもその映画から離れられない、映画の可能性を捨てきれない、いや離れさせないし捨てさせない、“映画の罪”とはそういうことではないだろうか。私は当ブログで多くの映画を紹介しているが、個人的には商業主義の映画が必ずしも駄目だとは思わないし、もっと言えば商業主義の何が悪いとすら思っている。というより商業主義を否定するならば自分で金を用意して好きなように作り、解る人だけ解ってくれれば良いと言っていればいいのだ。別にそれ自体も決して悪いことではないと思う。
例えば若松孝二監督などは、自分で金を出して作ってるのだから好きなように作ると言って憚らないのだから。一方で私はインデペンデント系の作品も好きで良く観ているつもりだ。そうした中には実に面白い作品が多く、もっと沢山の人に観てもらいたいと思う作品も多くある。その度にシネコンで公開されているどうでもいい作品の1本をやめてその作品をかけてくれたら思うこともしばしばだ。更に記事をエントリーすると、名の売れたタレントの大したことない作品のほうが、インデペンデント系の作品より圧倒的にアクセス数が多い。記事を書いている立場からすれば数の多寡ではなく読んで頂けるのは大変にありがたいが、映画ファンとしては少し寂しいというのも事実だったりする。
本作を観ていると、今映画の置かれている環境に色々と想いを巡らす事になるだろう。それはそれぞれの方が住んでいる地域によっても異なると思う。東京に住む私などは基本的に観られない作品は無いのだからとても恵まれている。それでも本作のような作品が現れてくるというのは、そうしなければインデペンデント系の映画を見る機会がどんどん失われていってしまうことの証左に他ならない。西島秀俊は実は結構テレビのドラマやテレビ局主導の秀二の言うところの商業主義の映画にも数多く出演しているが、そんな彼がこの作品に出演していることに意味があるのだと感じる。では私には何か出来るだろうか。私は今まで通り“気になったら観る”で行きたいと思う。
個人的おススメ度4.0
今日の一言:ナデリ監督がいた!何か普通のオジサンだった(笑)
総合評価:79点
| 固定リンク
最近のコメント