子どもたちの夏 チェルノブイリと福島
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子どもたちの笑顔が眩しくて苦しくて |
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東日本大震災による福島第一原発の事故。特に引き合いに出されることが多いのがチェルノブイリ原発事故であるが、本作は四半世紀の時差、約8000キロ離れた地に住む双方の被災者の“今”を切り取ったドキュメンタリーだ。印象的だったのは、どちらの土地に住む被災者も、当然そこから離れた方が良いに決まっていると思いつつも、それぞれの覚悟をもってその地に住み続けているということだ。カメラはまずウクライナを訪ねる所から始まる――。チェルノブイリから30キロの町イワンコフという町にあるグニズデチュコ孤児院。院長のガリナ・コロチュクさんは医者ではないから専門的な知識はない。しかし日々子供たちと生活しているという意味では明らかに専門家だ。
彼女は子供たちが病気になると普通よりも治療に時間がかかると言うのだが、ウクライナ国立母子健康保険小児病院のネーリ・ダネリュク医師が言う「被害に遭った(被曝した)母親の子供はウィルスに冒されやすく免疫システムが壊れています」という言葉は彼女の言うことを裏付けていた。これは科学的裏づけは確かに重要だが、実際に人間そのものを見つめ続けた結果導き出された客観的事実は、時に真実を突いていることもあるということではないか。院長は福島の人々に「もしできるなら、勿論子供を連れてその土地から出るべきです」と言うのだが、一方で自分は放射能の影響に耐えてこの地で生き抜くこと、そして命の大切さを訴えることが子供たちのためになるという覚悟を決めていた。
実際院長自身も被災者であり、甲状腺がんの手術を受け、現在は慢性骨髄性白血病で闘病している。彼女の文字通り命がけの言葉を私たちはどう受け止めたら良いのだろう。その答えの一つをこの後訪れる福島県いわきしの一人のお母さんが見せてくれた。ところで、確かにここまで良い話を聞かせてもらったのだが、ここで私は敢えて監督に言いたいことがある。取材対象者が良い話しをしてくれると確かに切りにくい。しかしだからといって延々と長くインタビューを使いすぎだ。更にその長いインタビューを羅列する手法は全体を単調にし、聞くものの集中力を殺ぐ。実際にその方を目の前に話を聞くのと、映像でインタビューを聞くのとでは意味が違うことを認識すべきである。
ポイントとなる部分をキッチリ抜き出し、話しに引き込むことで初めて語り手の伝えたいことがしっかりと伝わるはずだ。さて、先に書いた通りカメラは今度は福島県いわき市を訪れ、とあるママに密着する。彼女は他の全ての母親と同じく精一杯娘を守ろうとしていた。仲間同士で校庭の放射線量を計測したり、市役所の様々な部署で除染の方法に関して聞きまわったり…。ここで重要なのはどこまでの線量ならば安全と言えるのかということだ。ただここでも気なる部分があった。そのポイントをどうして監督は然るべき機関なり専門家に取材しないのだろう。この作品を観ている人が知りたいのはそこではないのか。ママの不安や不満は理解できるがそれだけを聞きたいわけではないはずだ。
取材内容をママにあてて、その反応を再度聞くことで問題を掘り下げられるのに。また除染に関しても、ママが市役所に何を言われたのかを聞いているが、厳しい言い方をすればママの伝聞では公式的なものにはならない。役所の人間にしゃべらせて始めて公式的なものになるはずで、どうしてそこまで突っ込まないのか。要するに被災者の話を聞くことで監督自身が何を訴えたいのかが良く伝わってこない。この後劇中では再びウクライナに戻り今度は原子爆弾製造の工場で働いていた老人とその家族に話を聞く。そして最後にはまた福島で先ほどのママの5才の娘・はるなちゃんの姿を映し出すのだが、そこにあったのは実にポジティブで強い言葉とかけがえのない笑顔だった。
毎日のように病院に通う18歳のクリスティーナは愛らしい笑顔で「事故の影響は残るけどいつかは消える、未来を信じて希望を持たないと」と話してくれる。そして、久しぶりにママに公園で遊ぶことを許されたはるなちゃんは、もう大喜びではしゃぎまわり、これ以上ないほどステキな笑顔でブランコに夢中になるのだった。子供たちの笑顔に隠されたつらい想いに心苦しさを覚えながらも、大人の元気は子供の笑顔に貰えるんだなと実感。ドロドロになってクタクタになるまで外で遊べた、虫取りや穴掘り、川に入っておたまじゃくしをすくいを楽しめた自分の子供時代が如何に幸せだったのかを痛感させられたのだった。
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個人的おススメ度3.5
今日の一言:子供の笑顔は宝物だよね
総合評価:67点
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