セイジ -陸の魚-
西島秀俊の芝居に魅せられた― |
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俳優の伊勢谷友介が監督を務めた作品。『カイジ2 人生奪回ゲーム』や『あしたのジョー』などの素晴らしい演技が記憶に新しいけれど、実は監督もやっていたとは初めて知った。物語は二階堂智扮する“僕”がある一通の企画書を手にし、自分が20歳だった20年前の一時期に経験した出来事を回想するというものだ。20年前の“僕”(森山未來)は就職も内定し自転車で旅をしていたのだが、その途中カズオ(新井浩文)の運転する車と接触事故を起こし、彼が常連である山の中の寂しいドライブイン「HOUSE475」に連れて行かれる。セイジ(西島秀俊)はその店の雇われ店長だった―。本作の流れは当然“僕”の目線で進んで行くが、とにかくこの西島秀俊の存在感が素晴らしい。
登場した瞬間空気が張り詰めるような緊張感がスクリーンから漂ってくる。“僕”との会話の中で「生きるために食うし、そのために働くのだ」という彼に対して「俺は一瞬でいいから生きたいと思うよ」と話す彼はまるで全てを悟っているかのようでもある。個人的に西島秀俊は前作『CUT』あたりから確実に変わったと思うし、彼自身も自分の俳優人生は『CUT』以前と以後に分けられると語っていたが、本作での彼からはまるで『CUT』の秀二と同じような人格を感じた。…と思ったら、実は本作と『CUT』は同時期に撮影していたらしい。ただ全く同じではなく、あちらが激しい狂気だとするならば、こちらは内に秘めた静かな狂気として演じ分けていたように思う。
“僕”はそんなセイジやセイジを雇った店のオーナー翔子(裕木奈江)、常連の客たちとの交流の中で何となく居心地の良さを感じ店にいついてしまうのだった。もちろん一番の理由はセイジの存在だろう。時として人を寄せ付けない、強固な鎧を身に纏っているかと思えば、ある時は常連客の一人ゲン爺(津川雅彦)の幼い孫娘りつ子と笑顔で遊ぶ一面も見せる。動物愛護団体の人間に対して、「動物を守りたいなら自分が自殺して人間を一人でも減らせばいい」とまで言い切りながら、一方で相手にいきり立つ“僕”には笑みを浮かべながら「彼らが間違っているワケじゃない」と諭すように話しかける…。必ずしも狂気だけでなく、ふと見せる柔らかい優しさに“僕”ならずとも思わず惹きつけられるのだ。
その“僕”、森山未來は「セイジさんや周りの人たちに振り回されればいいや」という気持ちで演じていたそうだが、実は本作の登場人物の中で彼が最も“普通”であり、いわば観客の目線で物語を俯瞰してくれる彼の存在なくして私たちは映画に入り込むことは出来ないだろう。その意味で今回の森山未來は実に上手く“普通”を演じていた。ところでセイジをこの地に繋ぎ止めている雇い主・翔子を演じた裕木奈江、ドラマ「北の国から」や「ポケベルが鳴らなくて」で一世を風靡したものだが、伊勢谷監督は大学時代からの大ファンだそうだ。実は私もファンだった。相変わらずどこかトンだような演技なのだが、しかしこの作品の翔子という薄幸で憂いをたたえた人物には良く合っていたように思う。
淡々と過ぎてゆく、どちらかと言うとけだるく代わり映えしない日常が動き始めるのはある日“僕”がセイジの部屋で一本の古い8ミリを見つけたあたりからだ。映っていたのはセイジの妹だった。そこで彼はセイジが心に抱える深い闇の理由を知ることになる。りつ子への優しさは妹への想いを重ねたものであることは想像に難くない。ところがここからとんでもない事件が巻き起こる。従前からこのあたりを騒がせていた連続無差別殺人犯の手によってりつ子の両親が殺され、りつ子自身も左手とその心を失ってしまうのだ。常連客や“僕”がりつ子を心配して見舞う中、セイジは何の反応も示さない。まるでまた同じことを繰り返してしまったと自責の念に駆られているかのようにも見える。
無論その背景には彼の妹に起こった出来事が影響している。半ばハメられた形でりつ子を見舞うことになったセイジの取った行動は鳥肌モノだった。何故りつ子は片腕を失わなければならなかったのか、彼女に何の罪があったというのか。セイジの行動はまるで人々の罪を背負うキリストの如く、彼女の罪や痛みを自らも背負わんとしたかのようだ。或いは自らの肉体を悪魔に捧げることでりつ子の魂を取り戻そうとしたのだろうか…。いずれにしろ西島秀俊が溜め込んでいた狂気を解き放つが如き演技に魅せられてしまった。原作者の辻内智貴からも高く評価されたという伊勢谷友介の監督としての手腕は確かなものがあると思う。俳優としてもだが、監督としての次回作も楽しみにしたい。
個人的おススメ度4.0
今日の一言:新井浩文がまたいいアクセントなんだよなぁ
総合評価:77点
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