愛のむきだし
濃密で幸せな3時間57分だった |
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鬼才・園子温監督をして「もはや狂気とも呼べる領域に達した満島の芝居にすべてが圧倒された」と言わしめた満島ひかりの演技が凄まじかった。なるほど今に通じる彼女の元はこの時に作られたのだと実感できる作品である。それにしても237分という長さにも関わらずそれが全く気にならない程のグイグイと物語に惹き付けられた。監督はインターミッションを入れるつもりで作っていない、故に単純に半分で切っただけで物語の前半後半という意味ではないと言っているが、実際休憩など無くてもおそらくひたすら見入っていたことだろう。その位奇妙で面白いこの物語は、園監督の古い友人が盗撮にはしり、新興宗教に入ってしまった妹を救い出すという実話に基づいて製作されたそうだ。
もちろん飲みのネタとしては確かに面白い話だ。しかしそこにキリスト教の厳粛な部分を絡め、尚且つ重苦しいだけではないあくまでもエンタテインメント作品として楽しめる物語を構築する所が園監督が鬼才と呼ばれる所以だろう。流石はライバルはケータイ小説だと豪語するだけはある(笑)それにしても何故「愛のむきだし」なんだろうか?「むきだしの愛」なら意味が解るのだが。つまり後者だと意味は“何の修飾もごまかしもない愛情”のことになる。翻って前者だと“愛をむきだにした○○”という行為を指す事になるだろう。ということはこの物語の主人公・角田ユウ(西島隆弘)が取った行動の全てが自らの愛を表現することに繋がるということになるのではないか。
元々ユウは幼い頃に母を亡くしているのだが、その母がくれたマリア像に母への想いを重ね、いつしか聖母マリアを理想の女性とするようになった男だ。その彼が自らのマリアと認めたのがヨーコ(満島ひかり)である。ただ彼女の登場するまでが割と時間がかかったのが意外だった。彼女が現れるまでに、ユウの父テツ(渡部篤郎)とヨーコの母サオリ(渡辺真起子)が知り合い、同棲をし、彼女が出て行ってしまうというエピソードがある。その結果テツは人が変わったようにユウに懺悔を求めるようになるのだが、彼は懺悔のために罪を作り出そうと盗撮に手を染めるようになるのだった。敬虔なクリスチャンであったテツが肉欲に溺れるようにサオリの虜になる姿は一際ブラックで本質を突いている。
渡部篤郎の清廉潔白な真面目ぶりと、渡辺真起子の自由奔放な淫乱ぶりが演技とは思えないぐらいにはまっていて恐ろしい。まるでこれ以上にシックリ来る役柄がないかと思えるぐらいの入り込みようである。父が堕ちて行くのと同時に、息子ユウまでもがいわば盗撮道といっても良いぐらいの世界にはまって行くのもまたユニークだ。まるで戦隊ヒーローが闘う時の動きのように女性の股間を狙い、撮影後はポーズを決めるというアホらしさ。そこだけを客観的に切り取れば何をやっているのかと思うのだが、全ては父に罪を懺悔するためであり、それは即ち父に神父であって欲しい、そして自分の父親であって欲しいという“愛のむきだし”に他ならない。そんな状況でユウはヨーコと知り合った。
ただ普通の知り合い方ではなく謎の女サソリとして。無論これは「女囚さそり」シリーズへのオマージュだろう。冤罪で刑務所に囚われ地獄をみるさそりの如く、ユウはこれから愛の地獄へと堕ちて行くのだ。それは父親テツがサオリとともに堕ちて行ったかのように。それにしてもここで笑えるのが、今まで一度も勃起したことがないというユウがヨーコのパンチラで初めて勃起してしまうシーンだ。「オー!モーレツ!!」のCMのように風でまくれ上がるスカート、そして一体何を入れて撮影したんだと思うぐらい極端な勃ちっぷり(しかもさそりの姿で)は完全にネタとして笑える。ただこれもやはり“愛のむきだし”の一つなのだ。正直言うと個人的に満島ひかりのパンチラに色っぽさは感じないが…。
物語としてはここから新たな展開を見せ始める。即ち新興宗教団体“ゼロ教会”の登場だ。これ以前にも安藤サクラ扮する教祖の右腕コイケは登場はしているが話としてはあくまでもテツたち一家をベースとした物語に終始している。ここからはその一家をコイケが乗っ取った形になる。監督の言う友人が妹を取り返したという件にあたる部分、その話が始まるワケだ。この安藤サクラという女優、奥田瑛二の娘というサラブレッドなのは有名だが、やはり絶妙に上手い。この人の良さは人間的な嫌らしさを感じさせる所だと思う。そういう役だからと言ってしまえばそれまでだが、何時だって人間の負の部分を纏った演技が出来る。そしてこれは父親譲りだと思うが演技に余計な飾りがない人なのだ。
今回は新興宗教団体の幹部として人の心の隙間にそっと入り込み、いつしかその人の心を支配してゆくという役割だが、ある意味彼女が同じフレームにいるときには満島ひかりさえも喰っていたと感じる。ユウはゼロ教会に潜り込み、ヨーコを救出するのだが、最大の見せ場は巷でも有名な“ユウにまたがって彼に向かってコリント書第13章をぶつける様に絶叫するシーン”だろう。ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章にのせた迸る魂の叫び。なるほどこれこそが冒頭に書いた通り、鬼才・園子温監督をもってして「もはや狂気とも呼べる領域に達した満島の芝居にすべてが圧倒された」と言わしめた演技である。相当な長回しにも関わらず瞬きも忘れるほどスクリーンを凝視してしまった。
ラストシークエンス。ヨーコが叩き付けた魂の叫びに匹敵する“愛のむきだし”を見せるユウ。人はこれほどまでに人を苛烈に愛せるのか。ヨーコはマリアだ。即ちそこには既に肉親の情すら超えた何かがあった。コイケは死ぬ間際に「私と同じじゃん」という言葉を残すのだが、確かに方や新興宗教、方やマリアという本来ならば姿無きモノに自らの愛を全身全霊で捧げているという点で同じことなのかもしれない。決して生半可な芝居を許さない園子温監督の手により、役者たちが本来持っている根っこを曝け出させたかのような本作、日頃邦画に感じるどこか箱の中に隙間を残した感覚と異なり、ぎっしりこれでもかと詰め込まれた濃密で幸せな3時間57分だった。
個人的おススメ度4.5
今日の一言:面白かった!
総合評価:88点
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